「これ、もっと短く書けないかな?」
陸は長いメッセージを見つめていた。
「何を書いてるの?」由紀が覗き込む。
「告白文。でも長すぎて、なんか違う気がする」
葵が興味深そうに近づいた。「圧縮の話だね」
「圧縮?」
「情報理論には、コルモゴロフ複雑度という概念がある。ある文字列を生成する最短のプログラムの長さだ」
由紀が尋ねた。「プログラム?」
「例えば、『0000000000』という文字列。これは『0を10回繰り返せ』という短いプログラムで表現できる」
「確かに」
「でも、『0101100111』みたいなランダムな列は、そのまま書くしかない。圧縮できない」
陸が目を見開いた。「じゃあ俺の気持ちも、圧縮できないってこと?」
「もしかしたら」葵が微笑んだ。「本当にランダムなもの、本質的に複雑なものは、短くできない」
由紀がノートに書き始めた。「でも、パターンがあれば圧縮できるんですよね?」
「そう。『君が好きだ』という気持ちを、『君が好きだ君が好きだ君が好きだ』と繰り返しても、情報量は増えない。むしろ冗長になる」
「でも」陸が真剣な顔をした。「同じ言葉でも、文脈で意味が変わるじゃないですか」
葵は感心した表情を見せた。「鋭い。条件付きコルモゴロフ複雑度という概念がある。相手の状態を知っているかどうかで、必要な情報量が変わる」
「つまり?」
「相手が『私もあなたが好き』という状態だと知っていれば、『お互い様』という短い言葉で済む。でも、相手の気持ちが不明なら、最初から丁寧に説明する必要がある」
由紀が言った。「相互情報量と関係してますね」
「正確だ。共有知識が多いほど、効率的な通信ができる」
陸はメッセージを読み返した。「でも俺、本当に伝えたいことは圧縮できない気がする」
葵が静かに言った。「それでいいんだと思う。シャノンエントロピーは平均的な圧縮限界を示すけど、コルモゴロフ複雑度は個々の対象の本質的な複雑さを測る」
「本質的な複雑さ…」
「そう。本当にランダムな文字列、本当に複雑な気持ちは、それ自身より短く表現できない。それがコルモゴロフ的にランダムという状態だ」
由紀が優しく言った。「陸くんの気持ちは、コルモゴロフ的にランダムなのかもね」
「それって褒めてるの?」
「褒めてるよ。定型文じゃない、あなただけの言葉だってこと」
葵が補足した。「圧縮できないものには価値がある。情報理論的に見れば、それは最大の情報量を持つ」
陸はメッセージを見つめた。「じゃあこのまま送る」
「うん」由紀が頷いた。
「でも」陸が不安そうに言った。「長すぎて読んでもらえないかも」
葵が笑った。「それは通信路容量の問題だね。受信者の注意力という帯域幅に、情報を適合させる必要がある」
「難しい…」
「要するに、読みやすさも大事ってこと」由紀が翻訳した。
「圧縮できないメッセージでも、見せ方は重要?」
「正確に」葵が確認した。「内容の複雑さは削減できないかもしれないが、パッケージングは重要だ。生データと優れたインターフェースの違いみたいなものだ。情報量は同じでも、アクセスしやすさが変わる」
陸は深呼吸をした。「分かった。圧縮はしない。でも、段落は整理する」
「良い判断だ」葵が認めた。「本質を保ちながら、可読性を上げる。それが良い符号化だ」
由紀が陸の肩を叩いた。「きっと伝わるよ。あなたのコルモゴロフ複雑度、ちゃんと」
「変な励まし方だな」陸が笑った。
三人は夕暮れの部室で、圧縮できない想いについて語り合った。
情報理論は、時に人の心にも適用できる。でも、心は常にアルゴリズムより複雑だ。