「また頼まれごとを引き受けてしまった」
日和が疲れた様子で座った。
空が心配そうに聞いた。「断れなかったんですか?」
「断ると、嫌われそうで」
ミラが静かにお茶を出した。日和が微笑んで受け取る。
「日和さん、いつも誰かを助けていますね」空が観察した。
「それが私の役割だから」
「役割?」
ミラがノートに書いた。「必要とされたい」
日和が驚いた。「見抜かれてる」
空がノートを開いた。「心理学では、これを承認欲求と言います」
「承認欲求」日和が繰り返した。
「マズローの欲求階層説では、人間には五段階の欲求がある」空が説明し始めた。
「生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現欲求」
日和が頷いた。「承認欲求は四番目」
「そう。他者から認められたい、必要とされたいという欲求」
ミラが書いた。「なぜ承認が必要?」
空が考えた。「進化心理学的には、集団から排除されることは死を意味した。だから、承認を求めるのは本能的」
「でも、過度な承認欲求は問題を引き起こします」
日和が聞いた。「どんな問題?」
「自己犠牲」空が答えた。「自分のニーズを無視して、他者の期待に応え続ける」
「それの何が悪いの?」
ミラが書いた。「燃え尽きる」
「その通り」空が認めた。「持続不可能です」
日和が窓の外を見た。「でも、必要とされないより良いと思ってた」
「本当に?」空が優しく聞いた。
日和が黙った。
ミラがさらに書いた。「条件付きの価値?」
「条件付き?」日和が聞く。
空が説明した。「カール・ロジャースの概念です。他者の期待に応えた時だけ、自分に価値があると感じる」
「無条件の価値感と対比されます」
日和がゆっくり頷いた。「私は、役立つ時だけ価値があると思ってた」
「それは辛い」空が共感した。「常に証明し続けなければならない」
「疲れる」
ミラがお茶のカップを握った。何か言いたそうだ。
「ミラさん、何か?」日和が促した。
ミラが書いた。「日和さんは存在するだけで価値がある」
日和の目に涙が浮かんだ。「ありがとう」
空が続けた。「承認欲求自体は悪くありません。問題は、それが唯一の自己価値の源になること」
「他にも源があれば?」
「バランスが取れます」空が答えた。「内的価値と外的承認、両方が必要」
日和が聞いた。「内的価値って?」
「自分で自分を認めること」
「自分を?」
ミラが書いた。「自己肯定感」
「そう。他者の評価に依存しない、自己への信頼」
日和が考えた。「どうやって育てる?」
空がリストを作った。「いくつか方法があります」
「一つ目、自分の強みを認識する。得意なこと、好きなことをリストアップ」
「二つ目、小さな達成を祝う。完璧でなくても、進歩を認める」
「三つ目、セルフコンパッション。自分に優しくする」
日和が驚いた。「自分に優しく?」
「クリスティン・ネフの研究です」空が説明した。「自己批判ではなく、自己への思いやり」
ミラが書いた。「失敗しても自分を責めない」
「正確」空が頷いた。
日和が深く息を吐いた。「私、いつも自分を責めてた」
「なぜ?」
「完璧じゃないと、必要とされないと思って」
空が優しく言った。「それは認知の歪みです。完璧な人なんていません」
「でも、期待を裏切りたくない」
ミラが書いた。「期待を裏切ることと、境界を設定することは違う」
日和が驚いた。「境界?」
空が説明した。「健全な人間関係には、境界が必要です。『ここまではできる、これ以上は無理』という線」
「それを伝えると、嫌われる」
「本当の関係は、境界を尊重します」空が断言した。「境界を越えさせる関係は、健全ではありません」
日和がゆっくり頷いた。「怖いけど、試してみる」
「次に頼まれたら?」
「考える時間をもらう。即答しない」
空が励ました。「良いスタートです」
ミラがさらに書いた。「日和さんが断っても、私たちは変わらない」
日和が微笑んだ。「ありがとう」
空が付け加えた。「必要とされたい気持ちは自然です。でも、それだけで自己価値を測らないで」
「自分自身として存在することに、価値がある」
日和が立ち上がった。「少し楽になった」
「一歩ずつ」空が言った。「承認欲求と健全に付き合うことを学んでいきましょう」
ミラがノートを見せた。「私たちも一緒に学ぶ」
日和が二人を見た。「ありがとう。必要とされなくても、大丈夫だって信じてみる」
「あなたは必要とされている」空が訂正した。「でも、それがすべてじゃない」
「存在することそのものに、価値がある」
三人は静かに座っていた。誰かに必要とされたい気持ちと、自己価値のバランス。それを見つける旅は、一生続くかもしれない。でも、その旅を共に歩む仲間がいることが、何よりの支えだと、三人は知っていた。