「この香り…バニラ?」
透真がフラスコを近づけた。
ミリアが微笑んだ。「バニリン。アルデヒド化合物」
奏が興味を持った。「アルデヒド?」
「カルボニル基を持つ有機化合物。R-CHO」
透真が構造式を描いた。「C=O?」
「炭素と酸素の二重結合」ミリアが説明した。「これがアルデヒドの特徴」
「ケトンと似てる?」
「似てるけど違う」ミリアが比較した。「アルデヒドは末端。ケトンは中間」
奏がノートに書いた。「RCHO vs RCOR'」
「正確」
透真が質問した。「なんで香りがする?」
「揮発性」ミリアが答えた。「小さな分子だから、空気中に漂う」
「そして、鼻の受容体に結合する」
奏が驚いた。「分子が、においを作る?」
「そう。受容体タンパク質が、分子の形を認識する」
ミリアが香水瓶を出した。「シナモン。これもアルデヒド」
「シンナムアルデヒド」透真が言った。
「バラの香り、レモンの香り、多くがアルデヒドやケトン」
奏が感動した。「香りって、化学だったんだ」
「すべてが化学」ミリアが静かに言った。
「アルデヒドの反応性について」ミリアが続けた。
「カルボニル基は、求電子的。電子を欲しがる」
零がちょうど実験室に入ってきた。「アルデヒドの話?」
「ちょうど良いタイミング」透真が笑った。
零が補足した。「C=Oの炭素は、部分的に正に帯電してる」
「なんで?」
「酸素の電気陰性度が高い。電子を引っ張る」
奏が理解した。「だから、求核剤が攻撃する?」
「正解。アルコールやアミンが付加する」
ミリアが反応を示した。「アルデヒドは、還元されやすい」
「アルコールになる」
透真が実験した。「水素化ホウ素ナトリウムで」
アルデヒドがゆっくり還元されていく。
「R-CHO → R-CH2OH」
奏が質問した。「逆の反応は?」
「アルコールの酸化」零が答えた。「一級アルコールをアルデヒドに」
「そして、さらに酸化するとカルボン酸」
ミリアが指摘した。「だから、アルデヒドは不安定。空気中で徐々に酸化される」
「バニラの香りが変わっていくのは?」
「酸化。アルデヒドがカルボン酸に」
奏がつぶやいた。「香りは、儚い」
「分子が変わる。それが時間の証」
透真が別の瓶を開けた。「これは?」
「ベンズアルデヒド。アーモンドの香り」
奏が嗅いだ。「確かに」
零が説明した。「ベンゼン環にアルデヒド基。芳香族アルデヒド」
「芳香族?」
「ベンゼン環を持つ。安定な構造」
ミリアが続けた。「自然界には、無数のアルデヒド」
「果物、花、木。すべてに固有の香り分子」
透真が感心した。「植物が作ってる?」
「生合成。酵素が複雑な分子を組み立てる」
奏が質問した。「人間の体にもアルデヒド?」
零が答えた。「ホルムアルデヒド。代謝の副産物」
「でも有毒だから、すぐに酸化される」
ミリアが補足した。「アルデヒドデヒドロゲナーゼ。この酵素がアルデヒドを処理する」
「お酒を飲むと?」
「エタノールがアセトアルデヒドに。これが二日酔いの原因」
透真が苦笑いした。「だからアルデヒドは敵」
「でも、香りとしては味方」奏が言った。
ミリアがバニリンの瓶を閉じた。「アルデヒドは、生命の両面」
「毒にも薬にも、香りにも」
零が整理した。「カルボニル基の反応性。それが、多様な機能を生む」
奏が窓を開けた。外から、植物の香り。
「この香りも、アルデヒド?」
「おそらく」ミリアが微笑んだ。「草の香り。青葉アルデヒド」
透真が深呼吸した。「化学を吸い込んでる」
「生きることは、化学すること」零が静かに言った。
三人は、見えない分子の香りを楽しんだ。アルデヒドの淡い香りが、部屋を満たしている。