「エントロピーって、何で増え続けるんですか?」
由紀が葵に尋ねた。部室の窓から、秋の日差しが差し込んでいる。
「熱力学第二法則だ。孤立系では、エントロピーは決して減少しない」葵がノートを開いた。
「でも、なぜ?」
「状態の数の問題だ。例えば、部屋が散らかる方が、整理された状態より圧倒的に多い」
由紀が周りを見回した。確かに、部室は少し散らかっている。
「整理された状態は一つか少数。でも散らかる方法は無数にある。だから、自然に任せると散らかる方向に進む」
「確率の問題なんですね」
「そう。エントロピーは、ミクロ状態の数の対数に比例する。S = k ln(W)。ボルツマンの式だ」
葵がホワイトボードに式を書いた。
「Wが大きいほど、エントロピーも大きい」
「じゃあ、整理整頓するのは、エントロピーに逆らってるんですか?」
「鋭い質問だ」葵が微笑んだ。「でも、人間が整理する時、代謝でエネルギーを使う。その過程で、周囲のエントロピーが増える」
「全体としては、やっぱり増えてる?」
「正確。宇宙全体のエントロピーは、常に増大する」
由紀が考え込んだ。「じゃあ、いつか宇宙は最大エントロピーになって…」
「熱死と呼ばれる状態だ。全てが均一な温度になり、もう何も起きない」
「怖いですね」
「数十億年後の話だけどね」葵が静かに言った。
由紀がノートに計算を書きながら、ふと気づいた。
「先輩、エントロピーって情報理論でも使いますよね?」
「そう。シャノンエントロピーだ。H(X) = -Σ p(x) log p(x)。形は似ているけど、意味は少し違う」
「どう違うんですか?」
「熱力学のエントロピーは、物理的な乱雑さ。情報理論のエントロピーは、不確実性や驚きの度合い」
「でも、本質は同じ?」
「根底では繋がってる。両方とも、『可能性の数』を測ってる」
葵は窓の外を見た。
「情報理論でも、データ圧縮には限界がある。エントロピーが下限だ」
「減らせない?」
「無損失では無理。これも、ある種の『法則』だ」
由紀が小さく笑った。「全部、増え続けるか、減らせないんですね」
「制約の中で生きる、というのが自然の摂理かもしれない」
しばらく沈黙が流れた。
「先輩」由紀が小さな声で言った。「恋心も、エントロピーみたいに制御できないんでしょうか」
葵が驚いて由紀を見た。
「突然、何を…」
「いえ、ただ…気持ちが勝手に大きくなって、整理できなくて」
葵の表情が柔らかくなった。
「エントロピーは増大する。感情も、抑えようとすればするほど、複雑になるかもしれない」
「じゃあ、どうすれば…」
「全体として増えるのは仕方ない。でも、その中で大切な部分を選び、他を整理する。それが生きることかもね」
由紀が頷いた。「エントロピーと共存する、みたいに」
「そう。完全に制御はできない。でも、向き合うことはできる」
夕日が部室をオレンジ色に染めた。
「ありがとうございます、先輩」
「エントロピーは増え続ける」葵が静かに言った。「でも、その過程に美しさがあるんだ。恋も、同じかもしれない」
由紀は微笑んだ。今日も、新しいことを学んだ。エントロピーについて、そして少しだけ、自分の気持ちについて。