「好きって気持ち、どう伝えればいいんだろう」
由紀がぼんやりと言った。
「符号化の問題だな」葵が反応した。
「符号化?」
「内部状態を、外部に伝達可能な形に変換すること」
陸が笑った。「恋愛を情報理論で語るのか」
「全ての通信は符号化から始まる」葵が真剣に答えた。
由紀が興味を持った。「じゃあ、『好き』って言葉も符号?」
「そう。感情という連続的で曖昧な状態を、離散的な記号に変換している」
「でも」由紀が考えた。「『好き』だけじゃ、どれくらい好きか分からない」
「量子化の問題だ」葵がノートに図を描いた。「連続値を、有限個の値に丸める」
陸が例を出した。「『超好き』『まあまあ好き』『ちょっと好き』とか?」
「そうだね。レベル数を増やせば、より正確に表現できる」
由紀が悩んだ。「でも、言葉が増えすぎると、逆に伝わらなくなりませんか?」
「鋭い。符号長と精度のトレードオフだ」
葵が説明を続ける。「短い符号は効率的だけど、情報損失がある。長い符号は正確だけど、冗長になる」
「最適な長さってあるんですか?」
「シャノンの符号化定理がそれを教えてくれる。エントロピー以下には圧縮できない」
陸が考えた。「つまり、感情の複雑さに応じて、必要な言葉の量が決まる?」
「理論的にはそう。単純な感情なら短く、複雑な感情なら長く」
由紀がふと言った。「でも、『好き』の一言で通じることもありますよね」
「それは、文脈が補完してくれるから」葵が説明した。
「文脈?」
「二人の関係、その場の雰囲気、これまでのやり取り。それが暗黙の情報を提供する」
陸が理解した。「だから、仲が良い相手ほど、少ない言葉で通じる」
「正確に。共有情報が多いから、符号を圧縮できる」
由紀が笑った。「初対面だと、長々と説明しないといけない」
「共有文脈がないからね」
葵が続けた。「でも、符号化には損失がある。完璧には伝わらない」
「どういうことですか?」
「言葉は、感情の近似でしかない。必ず誤差が生じる」
陸が真剣に聞いた。「じゃあ、完璧に伝える方法はない?」
「情報理論的には、無限の符号長が必要になる。現実的じゃない」
由紀が寂しそうに言った。「じゃあ、気持ちは完全には伝わらない?」
「でも」葵が優しく言った。「それでいいんじゃないか」
「え?」
「完璧じゃないから、コミュニケーションが続く。補完し合おうとする」
陸が頷いた。「誤差があるから、何度も確認し合う」
「そう。符号化の不完全性が、関係を深める原動力になる」
由紀が考え込んだ。「じゃあ、どんな符号化が良いんですか?」
「相手が復号できる符号を選ぶこと」葵が答えた。
「復号?」
「符号から元の情報を推測すること。相手の理解力や文脈に合わせる」
陸が例を出した。「詩的な表現が好きな人には、詩的に。直接的な人には、ストレートに」
「そういうこと。符号化は、送信側と受信側の共同作業だ」
由紀が頷いた。「相手に合わせて、表現を選ぶ」
「それが、効率的で誤りの少ない通信だ」
「未確定な恋心を符号化する」由紀が呟いた。「難しいけど、それが告白なんですね」
「そう。不確実性を言葉に変える勇気だ」
三人は静かに微笑んだ。感情の符号化は完璧じゃない。でも、だからこそ美しい。