「どう言えば伝わるのかな…」
由紀は窓の外を眺めながら呟いた。部室には、由紀と葵とミラだけがいた。
「何を伝えたいの?」葵が静かに聞いた。
「それが…うまく言語化できないんです。感謝の気持ちなんですけど、『ありがとう』じゃ足りない気がして」
葵がノートを開いた。「符号化の問題だね」
「符号化?」
「情報を別の形式に変換すること。言葉は、気持ちを符号化したものだ」
ミラが図を描いた。「Feeling → Encoding → Words → Decoding → Understanding」
「そう。送信者は気持ちを言葉に符号化する。受信者はそれを解読して理解する」
由紀が考えた。「でも、完全に符号化できないときは?」
「情報の損失が起きる。これを『非可逆圧縮』という」
「非可逆…」
葵が説明を続ける。「例えば、MP3は音楽を圧縮する。人間には聞こえない周波数を削除して、ファイルを小さくする。元には戻せない」
「でも、大体の音楽は楽しめる」由紀が言った。
「そう。完璧じゃないけど、実用的。一方、ZIPは可逆圧縮。元のデータを完全に復元できる」
ミラが書き加えた。「Lossless vs Lossy」
「言葉もそうだ。気持ちを完全に符号化するのは不可能かもしれない。でも、重要な部分を保持できれば、伝わる」
由紀が顔を上げた。「じゃあ、どの部分が重要か考えればいいんですね」
「まさに。符号化では、情報の優先順位をつける。エントロピーの高い部分を保持する」
「エントロピーの高い部分?」
「予測しにくい、独特な部分。『ありがとう』は予測可能。でも、具体的に何に感謝してるかは、あなただけの情報だ」
由紀は少し考えた。「先輩が、いつも私の質問を否定しないでくれること。それが嬉しいんです」
「それは高い情報量を持つ」葵が微笑んだ。「具体的で、予測しにくい」
ミラが静かに頷いた。
「でも」由紀が続けた。「それでも全部は伝えられない。微妙なニュアンスとか、タイミングとか」
「それは当然だ。完全な通信は理論上も難しい。シャノンの通信路容量が限界を決める」
「じゃあ、どうすれば?」
葵が考えた。「複数の符号化方法を使う。言葉だけじゃなく、行動、表情、時間。冗長性を加えることで、伝達の信頼性が上がる」
ミラがメモを見せた。「Multiple channels. Higher reliability.」
「そう。通信理論では、複数のチャネルを使うことで、ノイズに強くなる」
由紀が目を輝かせた。「だから、手紙を書いたり、一緒に時間を過ごしたりすることも、符号化の一部なんですね」
「正確な理解だ。人間のコミュニケーションは、多次元的な符号化システムなんだ」
ミラが立ち上がり、由紀に小さな紙を渡した。そこには簡単な図が描かれていた。
「心 → 複数の表現 → 相手の理解」
矢印が何本も引かれている。
「ミラも、同じことを考えてたんですね」由紀が微笑んだ。
ミラは頷いただけだったが、その表情は柔らかかった。
「符号化は完璧じゃない。でも、試行錯誤の中で、少しずつ伝わる」葵が言った。
由紀はノートに書き始めた。感謝の気持ちを、具体的な言葉に。それは情報理論的に言えば、高エントロピーな符号化だった。
「ありがとうございます、葵先輩。私が曖昧な質問をしても、いつも真剣に答えてくれて」
葵が少し驚いた顔をした。「それは…こちらこそ。由紀の質問は、いつも本質を突いてるから」
二人の間で、情報が正しく伝達された。ミラは静かに微笑んだ。
伝わらない気持ちも、適切に符号化すれば、届く。それが今日の学びだった。