「なぜ好きなのか、分からない」
晴がつぶやいた。誰かの話をしている。
「好意に理由が必要?」ノアが聞いた。
「理由がないと、不安」
「なぜ?」
「理由があれば、納得できる。理由がないと、不確かで」
ノアが考えた。「でも、感情に理由を求めるのは変じゃない?」
「変?」
「感情は理性より先に来る。理由は後付けかもしれない」
晴が驚いた。「後付け?」
「心理学では『感情ヒューリスティック』と呼ばれる。感じてから、理由を探す」
「順序が逆?」
「そう。『好きだから、理由を探す』のであって、『理由があるから、好き』ではない」
晴が考え込んだ。「じゃあ、私が挙げる理由は、本当の理由じゃない?」
「本当かもしれないし、違うかもしれない」
「曖昧」
「感情は曖昧だから」
晴が聞いた。「でも、理由のない好意って、信頼できる?」
「信頼性と理由の有無は別」
「別?」
「理由があっても、その理由が消えたら、好意も消える?」
晴が考えた。「条件付きの好意?」
「そう。『優しいから好き』なら、優しくなくなったら?」
「好きじゃなくなる」
「それは、好意ではなく、取引だ」
晴が驚いた。「取引?」
「条件を満たせば好き。満たさなければ嫌い」
「厳しい」
ノアが続けた。「無条件の好意は、理由を超える」
「理由を超える?」
「どんな理由があっても、なくても、好き」
晴が笑った。「それって、盲目的?」
「盲目的愛。ロマンティックだけど、危険でもある」
「危険?」
「判断力を失う。相手の欠点が見えなくなる」
晴が頷いた。「理想化」
「そう。でも、ある程度の理想化は、愛に必要かもしれない」
「必要?」
「完璧な人はいない。欠点を受け入れるには、理想化が助けになる」
晴が考えた。「でも、それは偽りじゃない?」
「偽りではなく、選択的注視」
「良い面を見る?」
「そう。全体を見つつ、良い面に焦点を当てる」
晴が聞いた。「じゃあ、好意に理由は必要ない?」
「必要ないが、あってもいい」
「曖昧」
ノアが微笑んだ。「好意自体が曖昧だから」
「言語化できない感情」
「言語化の限界。ヴィトゲンシュタインの領域だ」
晴が窓を見た。「理由を求めるのは、コントロールしたいから?」
「鋭い。理由が分かれば、操作できる気がする」
「でも、できない」
「感情は、完全には制御できない」
晴が考え込んだ。「じゃあ、好意を受け入れるしかない」
「受容。それが最初の一歩だ」
「説明できなくても?」
「説明できなくてもいい。すべてが言語化される必要はない」
晴が頷いた。「沈黙の領域」
「そう。言葉にならない感情の豊かさ」
ノアが別の視点を出した。「サルトルは言った。『愛は不条理だ』」
「不条理?」
「理性で説明できない。でも、存在する」
晴が笑った。「存在するから、正しい?」
「正しいかどうかではなく、現実だ」
「現実を受け入れる」
「実存主義の基本」
晴が立ち上がった。「理由を探すのをやめる」
「やめなくてもいい。でも、執着しない」
「理由があれば、ボーナス?」
ノアが笑った。「良い表現。必須じゃなく、追加」
晴が微笑んだ。「好意は、謎のまま」
「謎だからいい。全部分かったら、つまらない」
「神秘性」
「好意の魅力の一部だ」
二人は教室を出た。好意の理由を探して、でも答えは見つからない。
晴がつぶやいた。「好きは好き。それだけ」
「シンプルだけど、深い」ノアが答えた。
理由を超えた好意。それもまた、人間らしさの一つだ。