「悲しくなんかない」
ミラが静かに言った。でも、その声は震えていた。
空は慎重に観察する。ミラの目は少し赤い。涙を拭いた跡があるように見える。
「ミラさん、無理しなくてもいいんですよ」日和が優しく声をかけた。
「無理なんかしてない」
ミラは即座に否定した。でも、その反応自体が何かを物語っている。
空がノートを開いた。「感情の否認について、最近読んだんです」
「否認?」
「自分の本当の感情を認めない心理的メカニズム」日和が説明した。「つらい感情から自分を守るために使われます」
ミラが黙って聞いている。
「例えば」空が続けた。「悲しいのに『大丈夫』と言ってしまう。怒っているのに『別に』と答える」
「それの何が問題なんですか?」ミラが静かに聞いた。
日和が窓の外を見た。「短期的には、心を守れます。でも、長期的には問題が蓄積する」
「感情は、認識されなくても消えません」空が補足した。「抑圧された感情は、別の形で表れる」
ミラが少し考えてから聞いた。「別の形?」
「身体症状、過度の疲労、理由のわからない不安」日和が列挙した。「感情は出口を求めます」
空がページをめくった。「心理学では、これを『身体化』と呼びます」
「感情を認めないことで、体が代わりに叫ぶんです」
ミラがじっと自分の手を見た。「最近、頭痛が多い」
「ストレスや抑圧された感情が原因かもしれません」日和が優しく言った。
「でも」ミラが声を絞り出した。「感情を認めたら、どうなるんですか?」
「崩れてしまうような気がする」
空が理解した。「それが怖いんですね」
日和が頷いた。「多くの人が同じ恐怖を持っています。感情を認めたら、コントロールを失うのではないかと」
「でも実際は逆です」空が言った。「感情を認識することで、初めてコントロールできるようになる」
ミラが疑わしそうに見る。
「名前をつけられない感情は、扱えません」日和が説明した。「『悲しい』と認識して初めて、その感情に対処できます」
空が例を出した。「『なんとなく嫌な感じ』より『友達の言葉に傷ついた』の方が、対処しやすいですよね」
ミラが小さく頷いた。
「感情を認めることは、弱さではありません」日和が強調した。「むしろ、強さです」
「自分の内側を見る勇気」空が付け加えた。
ミラがゆっくりと息を吐いた。「でも、どうやって?」
「まず、感情を観察すること」日和が提案した。「判断せず、ただ気づく」
空がノートに書いた。「『今、悲しいと感じている』それだけでいい」
「否定も肯定もせず、ただ認める」
ミラが静かに言った。「簡単そうで、難しい」
「最初は難しいです」日和が認めた。「長年の習慣を変えるのは時間がかかります」
「でも、練習できます」空が励ました。「小さな感情から始めて」
ミラが少し考えてから、小さな声で言った。「今、少し悲しい」
日和が微笑んだ。「それが第一歩です」
「悲しいと認めても、世界は崩れませんでした」空が優しく指摘した。
ミラの目に涙が浮かんだ。でも今回は、拭わなかった。
「涙を流してもいいんです」日和が言った。「感情には、出口が必要です」
空がそっと近くに座った。「私たちは、ここにいます」
ミラは静かに泣いた。否認のカーテンが少しずつ開いていく。
「感情を認めるのは、自分を大切にすることです」日和が最後に言った。
窓の外で、雨が降り始めた。抑圧された感情が解放されるように、静かに、でも確実に。