「もう無理だ」
海斗が机に突っ伏した。放課後の教室、三人だけが残っていた。
「何があったんですか?」日和が心配そうに聞いた。
「分からない。何も悪いことが起きたわけじゃないのに、全部が重い」
空が椅子を引いて座った。「認知的負荷が高すぎるのかもしれません」
「認知的負荷?」
「脳が同時に処理できる情報量には限界がある」空が説明した。「複数のタスクや感情が重なると、処理能力を超えてしまう」
日和が補足した。「例えば、試験、バイト、人間関係の悩み。一つ一つは大したことなくても、同時に抱えると心がパンクする」
「まさにそれだ」海斗が顔を上げた。「今週、レポート三本、部活の試合、親との喧嘩、全部重なった」
空がノートを開いた。「心理学では、マルチタスキングは実際には不可能とされています。脳は高速で切り替えているだけ」
「だから疲れるのか」
「そう。切り替えのたびに、エネルギーを消費する。認知資源は有限です」
日和が優しく言った。「感情の処理も、同じようにエネルギーを使います。悲しみ、怒り、不安、それぞれに向き合うには時間が必要」
海斗が考え込んだ。「でも、現実は待ってくれない。次から次へと新しいことが起きる」
「だから心が追いつかない」空が頷いた。「外部の速度と、内部の処理速度が合わない」
日和が窓の外を見た。「そういう時は、意図的にペースを落とすしかありません」
「どうやって?」
「優先順位をつける。全てに全力で対応しようとしない」
空が具体例を出した。「例えば、今日は感情の処理だけに集中する。タスクは明日に回す」
「感情を後回しにするのは危険?」海斗が聞いた。
「逆です」日和が答えた。「感情を無視すると、無意識に処理能力を奪われます。むしろ、意識的に向き合う時間を作る方が効率的」
「未処理の感情が、背景でずっと動き続けるってこと?」
「そう。コンピュータのバックグラウンドプロセスみたいに」空が例えた。
海斗が少し楽になった表情を見せた。「じゃあ、今日は何もしなくていい?」
「何もしないのは難しいかもしれませんが」日和が微笑んだ。「少なくとも、心が追いつく速度で動くことが大切です」
空が付け加えた。「急性ストレス反応というのがあります。短期的には、パフォーマンスを落としても、長期的には回復のために必要な時間」
「休むことも仕事のうち」
「まさに。心理学的には、休息は単なる怠けではなく、認知資源の回復プロセスです」
海斗がゆっくり深呼吸した。「でも、周りはどんどん進んでいく気がする」
日和が静かに言った。「それも認知バイアスかもしれません。実際には、みんな同じように苦しんでいる」
「見えないだけ」
「そう。他人の内面は見えにくい。だから、自分だけが遅れているように感じる」
空が真剣な顔で言った。「比較も、認知的負荷を増やす要因です。他者との比較をやめるだけで、かなり楽になる」
海斗が少し笑った。「言うは易し、だけどな」
「もちろん。でも、気づくことが第一歩です」日和が認めた。
空がノートに書いた。「心が追いつかない日は、追いつこうとしないこと」
海斗が読んだ。「矛盾してるような、してないような」
「それが心の在り方かもしれません」日和が言った。「全てを解決しようとしなくていい」
「今日できることは、今日の分だけ」
「そう。明日の心配は、明日の自分に任せる」
海斗が立ち上がった。「じゃあ、今日は帰って寝る」
「良い選択です」空が頷いた。
「ありがとう、二人とも」
日和が微笑んだ。「心が追いつかない日も、ちゃんとある。それを認めることが大事」
三人は教室を出た。夕暮れの空が、穏やかに広がっていた。心が追いつかない日があってもいい。そう思えることが、すでに一歩前進だった。