「触媒って、可哀想じゃない?」
奏が突然言った。
ミリアが首を傾げた。「可哀想?」
「だって、手伝うだけで、自分は変わらない」
零が微笑んだ。「それが触媒の定義だ」
「でも、もし触媒に感情があったら、嫉妬するかも」
透真が笑った。「基質が生成物に変わるのを、見てるだけ」
ミリアが乗った。「面白い視点。触媒の気持ちで考えてみよう」
零がホワイトボードに描いた。「A + B → C、触媒の存在下」
「触媒は、AとBを引き合わせる」
奏が続けた。「キューピッド?」
「良い比喩」ミリアが認めた。「でも、キューピッドは結婚式に参加できない」
「それが嫉妬の理由」
透真が質問した。「触媒、本当に変わらないの?」
零が答えた。「反応の前後で、化学的に同じ状態に戻る」
「途中では?」
「途中では変わる。中間体を形成することもある」
ミリアが補足した。「でも、最終的には元に戻る。それが触媒の条件」
奏がノートに書く。「触媒=変わらずに手伝う」
「どうやって手伝うの?」透真が聞いた。
「活性化エネルギーを下げる」零が説明した。
「壁を低くする」
「基質が、山を越えやすくする」
ミリアが図を描いた。「触媒なしの経路と、触媒ありの経路」
「触媒ありの方が、山が低い」
奏が理解した。「だから、反応が速くなる」
「でも」零が強調した。「平衡位置は変わらない」
「変わらない?」透真が混乱した。
「正反応も逆反応も、同じ倍率で加速される」
「だから、最終的な生成物の量は同じ」
奏が考えた。「じゃあ、触媒の意味は?」
「時間」ミリアが即答した。「1年かかる反応を、1秒で起こせる」
「工業的には、それが全て」
透真が例を聞いた。「具体的には?」
零が列挙した。「ハーバー・ボッシュ法。窒素と水素からアンモニア」
「鉄触媒がなければ、実用的じゃない」
「自動車の触媒コンバーター」ミリアが付け加えた。「排気ガスの有害物質を分解」
「プラチナ、パラジウム、ロジウム」
奏が驚いた。「高価な金属」
「でも、少量で済む。再利用できるから」
透真が質問した。「酵素も触媒?」
「生体触媒」零が答えた。「でも、特別な触媒」
「何が特別?」
ミリアが説明した。「特異性が非常に高い。一つの反応だけを触媒する」
「金属触媒は、もっと広範囲」
零が続けた。「酵素は、穏和な条件で働く。常温、常圧、中性pH」
「工業触媒は、高温高圧が多い」
奏がまとめた。「酵素=優しい触媒」
「そして、制御可能」ミリアが付け加えた。
「制御?」
「フィードバック阻害。生成物が多いと、酵素が止まる」
零が図を描いた。「代謝経路の最終産物が、最初の酵素を阻害する」
「自己制御システム」
透真が感心した。「賢い」
「進化の結果」ミリアが言った。
奏が元の話題に戻った。「で、触媒は嫉妬してる?」
「してるかも」透真が笑った。「頑張っても、評価されない」
「縁の下の力持ち」
ミリアが擁護した。「でも、触媒なしでは、何も進まない」
「影の主役」
零が静かに言った。「科学者も、そういうもの」
「え?」奏が聞き返した。
「研究成果は残るけど、研究者の名前は忘れられる」
「でも、それでいい。知識が進歩すれば」
ミリアが頷いた。「触媒の哲学」
透真が宣言した。「俺は、触媒みたいな人間になりたい」
「人を助けて、自分は変わらない」
奏が訂正した。「ちょっとは変わってもいいんじゃない?」
「触媒も、完璧じゃないから」零が認めた。
「少しずつ劣化する。被毒される」
「でも、再生できることもある」
ミリアが微笑んだ。「人間も、再生できる」
窓の外で、風が吹く。見えないけど、確かに働いている。触媒のように。