「日和さん、怒ってる?」
海斗が恐る恐る聞いた。部室で、日和は黙って窓の外を見ていた。
「怒ってないよ」日和が静かに答えた。
「でも、さっきから何も話さないし」
「ただ疲れてるだけ」
海斗が困惑した顔で空を見た。「空、日和さん本当に怒ってないかな?」
空が観察した。「表情は穏やかに見えるけど...確かに、いつもより口数が少ないですね」
日和が溜息をついた。「本当に怒ってないの。なぜそう思うの?」
「だって、いつもと違うから」海斗が答えた。
空が介入した。「これは面白いケースかもしれません。感情認識の難しさです」
「感情認識?」
「相手の感情を読み取ること。でも、それは必ずしも正確ではない」
日和が座り直した。「私が疲れているというサインを、海斗くんは怒りと解釈したんですね」
「非言語コミュニケーションの誤読です」空が説明した。「表情、声のトーン、姿勢などから感情を推測するけど、その解釈は観察者の経験やバイアスに影響される」
海斗が謝った。「ごめん、日和さん。勝手に決めつけてた」
「いいのよ。でも、確かに複雑ね」日和が考えた。「私も、自分の感情を正確に伝えられていなかったかもしれない」
空がノートを開いた。「感情には温度や強度がある。でも、それを言葉で正確に表現するのは難しい」
「温度?」海斗が聞く。
「怒りにも、イライラから激怒まで段階がある。悲しみも、寂しさから絶望まで」
日和が補足した。「そして、同じ表情でも、文脈によって意味が変わる」
「例えば?」
「微笑みは、喜びのこともあれば、緊張を隠すためのこともある。涙も、嬉しい時と悲しい時がある」
海斗が理解した。「だから、表面だけ見ても分からないんだ」
空が続けた。「さらに、文化によって感情表現が違う。ある文化では直接的に表現するけど、別の文化では控えめに表現する」
「日本は控えめな方?」
「比較的そうね」日和が答えた。「だから、微妙なニュアンスを読み取る必要がある」
空が質問した。「日和さん、本当に疲れているだけなんですか?他に何か気になることは?」
日和が少し考えてから答えた。「実は...今日、研究発表があって、うまくいかなかったの」
「それは大変でしたね」
「でも、怒ってたわけじゃない。ただ、落ち込んでた」
海斗が反省した。「俺、完全に読み違えてた。落ち込みを怒りと勘違いしてた」
「なぜ怒りだと思ったの?」空が聞いた。
「うーん...俺、いつも誰かを怒らせてるから、そう思い込んでたのかも」
日和が笑った。「海斗くんの過去の経験が、今回の解釈に影響したんですね」
「確証バイアスみたいなもの?」
「近いです」空が説明した。「期待効果とも呼ばれる。過去の経験から予測を立てて、その予測に合うように情報を解釈してしまう」
日和が優しく言った。「でも、確認してくれたのは良かったよ。『怒ってる?』って聞いてくれて」
「え、でも余計なお世話だったかも」
「いいえ。コミュニケーションで大切なのは、確認すること。推測だけで決めつけないこと」
空が加えた。「心理学では『メタコミュニケーション』と言います。コミュニケーションについてのコミュニケーション」
「難しそう」海斗が言った。
「簡単に言えば、『今のどういう意味?』『どう感じてる?』と確認することです」
日和が頷いた。「そうすれば、誤解が減る」
海斗が真剣な顔をした。「これから、もっと確認するようにする。勝手に決めつけない」
「それは良い姿勢ですね」空が認めた。
日和が立ち上がった。「実は、さっきの沈黙は、どう話そうか考えてたの。感情を整理する時間が必要だった」
「沈黙にも意味があるんですね」
「そう。すべての沈黙が怒りや拒絶を意味するわけじゃない」
空がまとめた。「感情の温度を正確に読むのは難しい。だから、観察と確認の両方が大切」
三人は部室を片付け始めた。
「今日は良い学びがあったね」海斗が言った。
「感情は複雑だから、間違えることもある。でも、それを修正する姿勢があれば大丈夫」日和が微笑んだ。
夕方の光が部室を照らす。感情の温度を読む旅は、続いていく。