「ねえ、今って何が起きてる?」
奏がビーカーを見つめた。溶液がゆっくりと色を変えていく。
「反応中だ」零が答えた。「分子が変化している」
透真が目を輝かせた。「でも、どうやって?A分子がいきなりB分子になるの?」
「いきなりじゃない」零がホワイトボードに図を描いた。「その間に、ものすごく短い『きわどい瞬間』がある」
奏が首をかしげた。「きわどい?」
「遷移状態と呼ばれる。反応物でも生成物でもない、中間の不安定な状態」
透真が勝手にビーカーを持ち上げた。「見えないの?」
「見えない。存在時間が10のマイナス13秒くらい」
「え!」奏が驚いた。
零が続けた。「瞬き一回が0.1秒だとすると、その一兆分の一」
「想像できない…」
「でも、この一瞬が反応速度を決める」零が強調した。
奏がノートに書いた。「遷移状態がカギ?」
「そう。反応物から遷移状態までの『山』を越える必要がある」
透真が腕を組んだ。「山?」
「エネルギーの山。活性化エネルギーと呼ばれる」
零は図を描いた。横軸が反応の進行、縦軸がエネルギー。
「反応物はこの位置。生成物はこっち。でも直接行けない」
「なんで?」
「遷移状態を通過する必要がある。ここがエネルギーの頂点」
奏が理解した。「峠を越える感じ?」
「正確。峠が高いと、越えにくい。だから反応が遅い」
透真が興奮した。「じゃあ、温度を上げたら?」
「良い考え。温度が上がると、分子の運動エネルギーが増える」
「峠を越えやすくなる!」
零が頷いた。「アレニウス式がそれを表す。反応速度は、活性化エネルギーと温度に依存する」
奏が質問した。「遷移状態って、どんな形?」
「それが面白い」零が目を輝かせた。「結合が切れかけて、新しい結合が作られかけてる」
「宙ぶらりん?」
「そう。SN2反応では、五配位の炭素ができる。本来は四配位なのに」
透真が混乱した。「ルール違反?」
「違反じゃない。極めて短時間なら許される」
奏が考え込んだ。「でも、なんで不安定なの?」
「電子配置が最適じゃないから。結合が中途半端」
零が別の例を出した。「酵素はこの遷移状態を安定化する」
「安定化?」
「遷移状態に結合して、エネルギーの山を低くする。だから反応が速くなる」
透真がビーカーを見た。「今も、一瞬一瞬、遷移状態が生まれては消えてる?」
「そう。無数の分子が、その『きわどい時間』を通過してる」
奏がつぶやいた。「見えない瞬間が、すべてを決める」
「化学の本質だ」零が静かに言った。「遷移状態理論は、反応がなぜ起きるか、どれくらい速いかを説明する」
「美しい理論ですね」
「美しいけど、厳しい。遷移状態は観測できない。推測するしかない」
透真が笑った。「見えないものを研究する?」
「科学の多くは、そうだ」零が認めた。「でも、間接的な証拠から、確かに存在する」
奏がビーカーを見つめた。反応は静かに進む。
「一瞬のドラマを、無数に繰り返してるんですね」
「そうだ。化学は瞬間の科学でもある」
透真が部屋を見回した。「今この瞬間も、世界中で遷移状態が?」
「何京、何垓という数で」
奏が深呼吸した。「きわどい時間、確かにある」
零が微笑んだ。「それを理解することが、化学を理解すること」
三人は静かに、見えない反応の瞬間を想像した。