「わかった」
陸の短い返事に、由紀は不安を感じた。
「本当にわかってる?」
「わかったって言ったじゃん」
部室の空気が少し重くなった。
「これは典型的な、冗長性不足の会話だ」葵が観察していた。
「冗長性不足?」由紀が聞く。
「必要な情報が足りない。『わかった』という1ビットの応答では、何をどう理解したか不明」
陸が反論した。「でも、説明を聞いたから『わかった』なんだよ」
「でも」葵が静かに言った。「由紀には、陸の理解度が伝わっていない」
「じゃあ、どう言えばいい?」
「例えば、『わかった。つまり、明日の9時に駅で集合だね』と確認する」
「冗長じゃない?」陸が文句を言う。
「それが冗長性の価値だ。エラー検出と確認ができる」
由紀が理解した。「復唱することで、誤解がないか確認できる」
「そう。通信理論では、ACK(acknowledgment)と呼ばれる」
葵はホワイトボードに図を描いた。送信者、メッセージ、受信者、ACK。
「受信者が理解を確認して返すことで、送信者は正しく伝わったと分かる」
陸が考えた。「でも、いちいち復唱するの面倒くさい」
「効率とロバスト性のトレードオフだ」葵が説明した。「冗長性を減らせば効率的だけど、エラーに弱い」
「チャットで『了解』だけ送るみたいなもの?」由紀が例を出した。
「正確。短いけど、何を了解したか不明確」
陸が納得した。「じゃあ、重要なことほど冗長に?」
「そう。緊急時の通信は、必ず復唱して確認する。航空管制とか」
葵は別の例を出した。「『タワー、ランウェイ34Rにクリア』『コピー、ランウェイ34Rにクリア』」
「繰り返してる」由紀が気づいた。
「エラーのコストが高いから。人命に関わる」
陸が真剣になった。「じゃあ、友達との会話でも、冗長性は必要?」
「文脈による。親しい友達なら、共有知識が多いから、省略できる」
「共有知識が辞書みたいなもの?」
「そう。でも、新しい話題や重要な約束は、冗長性を上げるべき」
由紀が実例を出した。「『明日ね』だけだと、時間も場所も不明」
「そう。『明日の午後3時に図書館で会おう』と具体的に」
陸が笑った。「俺、いつも省略しすぎか」
「少しね」葵が微笑んだ。「でも、それが陸らしさでもある」
「どういうこと?」
「完璧な冗長性は、機械的で冷たい。適度な省略は、親密さの証でもある」
由紀が理解した。「信頼関係があるから、省略できる」
「正確。冗長性の最適レベルは、関係性に依存する」
陸が窓の外を見た。「じゃあ、俺たちの会話の冗長性は?」
「低めだけど、機能してる」葵が評価した。「お互いを理解する努力があるから」
「努力?」
「文脈を読み取る努力、質問する努力、確認する努力」
由紀が付け加えた。「冗長性が低くても、復号化能力が高ければ通じる」
「素晴らしいまとめだ」葵が感心した。
陸が立ち上がった。「わかった。つまり、状況に応じて冗長性を調整するってことだな」
葵と由紀が笑った。
「今の返答は、適切な冗長性だ」葵が認めた。
「学習した」陸が胸を張った。
「でも」由紀が言った。「時々は冗長性を上げてね。心配だから」
「わかった。心配させてごめん。これからは、もう少し具体的に説明する」
葵が満足そうに頷いた。「完璧。これが、適応的冗長性だ」
三人は笑い合った。冗長性の足りない会話から、大切なことを学んだ一日だった。