「合わない」
透真が計算用紙を見つめた。
「何が?」奏が聞く。
「試薬を混ぜたのに、理論通りの生成物ができない」
零が近づいた。「化学量論を確認した?」
「化学量論?」
「反応式の係数。原子の数を合わせるバランス」
ミリアが説明した。「質量保存則。原子は消えないし、新しく生まれない」
「当たり前じゃないの?」奏が言う。
「当たり前だけど、これが全ての基礎」零が強調した。
透真が反応式を書いた。「2H2 + O2 → 2H2O」
「水素二分子と酸素一分子で、水二分子」
零が頷いた。「係数が化学量論比。これを守らないと、無駄が出る」
奏がノートに書いた。「無駄?」
「限定試薬。先に無くなる方の試薬」
ミリアが例を出した。「水素を一分子、酸素を一分子混ぜたら?」
「水は?」透真が考える。
「二分子できるけど、水素が足りない。水は一分子だけ」
「酸素が余る?」
「半分余る。過剰試薬と呼ぶ」
零が続けた。「だから、化学量論比で混ぜることが重要」
奏が質問した。「でも、透真の実験では?」
「化学量論比で混ぜたのに、生成物が少ない」
ミリアが聞いた。「理論収率の何パーセント?」
「60パーセントくらい」
「典型的だ。完璧な反応はほぼない」
透真が驚いた。「完璧じゃない?」
「副反応、逆反応、損失…様々な要因がある」零が説明した。
「副反応?」
「目的の生成物以外ができる反応。選択性が100パーセントじゃない」
奏が理解した。「だから収率が下がる?」
「そう。実験収率は、理論収率より常に低い」
ミリアが付け加えた。「生化学反応も同じ。酵素があっても、100パーセントじゃない」
「酵素でも?」
「逆反応が起きる。平衡があるから」
零が強調した。「化学量論は、最大値を教えてくれる。でも保証はしない」
透真がつぶやいた。「化学量論が許さない矛盾って?」
「原子の数が合わない反応式」ミリアが答えた。
「例えば?」
「H2 + O2 → H2O。左に三原子、右に三原子。でも水素と酸素の数が合わない」
奏が気づいた。「係数が必要!」
「そう。2H2 + O2 → 2H2O。これで両辺が一致する」
零が続けた。「質量保存則は絶対。これに反する反応は存在しない」
「核反応を除いて」ミリアが付け加えた。
「核反応?」
「質量がエネルギーに変換される。E=mc²」
透真が興奮した。「化学反応では、質量は不変?」
「厳密には、ほんの少し変わる。でも測定できないほど小さい」
奏が計算用紙を見た。「透真の実験、化学量論的には正しい?」
零が確認した。「係数は合ってる。でも、実験技術の問題かも」
「技術?」
「温度、pH、攪拌、純度…多くの要因が収率に影響する」
ミリアが励ました。「60パーセントは悪くない。プロでも80パーセント超えれば上出来」
透真が笑った。「そうなの?」
「有機合成では、多段階反応で10パーセント以下もある」
奏が感心した。「化学って、理論と実践の差が大きい?」
「だから面白い」零が言った。「理論が上限を示し、実験が現実を教える」
ミリアが続けた。「でも、化学量論だけは嘘をつかない」
「絶対?」
「絶対。原子は消えない。増えない。移動するだけ」
透真が深呼吸した。「じゃあ、俺の40パーセントはどこへ?」
「副生成物、損失、測定誤差」零が列挙した。
「探せば見つかる?」
「理論的には。でも実際は難しい」
奏がつぶやいた。「化学量論、厳しいけど公平」
「数学的な美しさがある」ミリアが認めた。
零が付け加えた。「この厳密さが、化学を科学にした」
透真が笑った。「矛盾を許さない」
「許さない。でも、だからこそ信頼できる」
奏が計算用紙を見直した。「数字が語る真実」
「化学量論は、自然の会計」ミリアが静かに言った。
「収支が合わなきゃいけない」
零が頷いた。「それが、化学の美学だ」
四人は、計算用紙を見つめた。数字の中に、不変の真理がある。