「先輩、完璧に気持ちを伝えることって、可能ですか?」
由紀が葵に尋ねた。
葵は少し考えてから答えた。「シャノンの通信路容量定理を知ってる?」
「聞いたことはあります」
「C = max I(X;Y)。通信路が運べる最大の相互情報量だ」
陸が部室に入ってきた。「難しい話してる?」
「通信路容量の話」由紀が説明した。
「何それ?」
葵がホワイトボードに図を描いた。送信者、通信路、受信者。
「通信路には、必ずノイズがある」
「雑音?」
「そう。物理的な雑音、認知の歪み、言語の限界」
「だから、完璧な伝達は不可能」由紀が理解した。
「でも」葵が続けた。「通信路容量まで、誤りなく情報を送れる」
「C = B log₂(1 + S/N)。シャノン・ハートレーの定理だ」
「Bは帯域幅、Sは信号、Nはノイズ」
陸が質問した。「人間の会話にも、容量があるの?」
「ある」葵が断言した。「言葉の数、時間の制約、注意力の限界」
その時、S教授が部室に顔を出した。
「面白い議論をしてるね」
「教授」葵が挨拶した。
「通信路容量か。古典的だが、深いテーマだ」
教授は黒板に式を書いた。
「ノイズがある限り、容量は有限だ。でも、賢い符号化で、その限界に近づける」
「符号化?」由紀が聞いた。
「情報を、通信路に適した形に変換する」
「例えば、誤り訂正符号。冗長性を加えることで、ノイズに強くなる」
陸が理解した。「同じことを何度も言うみたいな?」
「原理的にはそうだ」教授が認めた。「でも、もっと賢い方法がある」
「ターボ符号、LDPC符号」葵が列挙した。
「それらは、シャノン限界にほぼ到達する」
「シャノン限界?」
「通信路容量。理論的な上限だ」
由紀が真剣に聞いた。「じゃあ、人間関係でも符号化が必要?」
教授が微笑んだ。「良い質問だ」
「言葉を選ぶこと、表現を工夫すること。それが符号化だ」
「でも」由紀が言った。「どんなに工夫しても、伝わらないことがあります」
「それは、容量を超えようとしてるからかもしれない」葵が指摘した。
「容量を超える?」
「一度に伝えようとする情報が多すぎる」
教授が補足した。「時間をかけて、少しずつ伝える。それが現実的だ」
陸が窓の外を見た。「じゃあ、恋愛告白も通信理論?」
「ある意味で」葵が笑った。「高エントロピーな情報を、限られた通信路で送る」
「成功率は?」
「通信路の状態による。ノイズが多ければ、失敗する」
由紀が小さく言った。「心にもノイズがあるんですね」
「不安、疑念、過去の経験」教授が列挙した。「それらが受信を歪める」
「じゃあ、どうすれば…」
「ノイズを減らすか、冗長性を増やすか」
「具体的には?」
「信頼関係を築く、明確に話す、相手の状態を確認する」
葵がまとめた。「通信路容量は有限。でも、最適化はできる」
教授が最後に言った。「シャノンは、完璧な通信は不可能だと示した」
「でも同時に、限界まで近づける方法も示した」
「だから希望がある」由紀が言った。
「そう。諦めるのではなく、賢く伝える」
陸が立ち上がった。「じゃあ、俺も符号化してみる」
「何を?」
「気持ちを、ちゃんと言葉にする」
葵が微笑んだ。「良い符号化だ」
教授が部室を出る前に言った。「通信は芸術でもある。理論と実践、両方が大切だ」
三人は頷いた。
言葉には限界がある。でも、その限界の中で、最大限伝えることはできる。
今日も、彼らは新しい通信路を開いた。