「電子って、何を考えてるんですかね」
奏が唐突に言った。
透真が笑った。「考えてないでしょ。粒子なんだから」
「でも」玲が真剣な顔で言った。「擬人化して考えることは、理解の助けになる」
「本当ですか?」
「量子力学を正確に理解するのは難しい。でも、電子の『傾向』を擬人化すると、化学結合が見えてくる」
奏が身を乗り出した。「どう擬人化するんですか?」
「電子は孤独が嫌い」玲が言った。「できれば対になりたい」
「不対電子は不安定で、対電子は安定」
透真が補足した。「パウリの排他原理。一つの軌道に、スピンが逆の電子が二つまで入れる」
「電子にとって、軌道は住居みたいなもの」玲が続ける。
「s軌道は一部屋、p軌道は三部屋、d軌道は五部屋」
奏がノートに描いた。「で、電子はどう入るんですか?」
「フントの規則。複数の軌道がある時、まず一つずつ電子が入る。その後、対になる」
「一つの部屋に二人より、別々の部屋に一人ずつの方が良いってこと?」
「正確には、電子間の反発を最小化する配置」玲が訂正する。
透真が周期表を広げた。「炭素を見て。1s² 2s² 2p²」
「2p軌道に電子が二つ。これは別々の軌道に一つずつ入ってる」
「だから炭素は、四つの結合を作れる」
奏が混乱した。「でも、不対電子は二つですよね?」
「混成軌道」玲が新しい概念を出した。「2s軌道と2p軌道が混ざって、四つの等価なsp³軌道ができる」
「四つの軌道に、四つの電子が一つずつ入る」
「全部不対電子になって、四つの結合が可能になる」
透真が模型を組み立てた。「メタンCH₄。炭素が中心で、四つの水素と結合」
「正四面体構造。sp³混成の結果」
奏が理解し始めた。「じゃあ、窒素は?」
「1s² 2s² 2p³」玲が答える。「2p軌道に三つの不対電子」
「だからアンモニアNH₃は、三つの水素と結合」
「でも、もう一つの孤立電子対がある」
「孤立電子対?」
「結合に使われない、対になった電子」透真が説明する。
「これがアンモニアの塩基性の原因。プロトンを受け取れる」
玲が図を描いた。「酸素は1s² 2s² 2p⁴。不対電子が二つ、孤立電子対が二つ」
「水H₂Oの構造。二つの水素と結合して、二つの孤立電子対」
「孤立電子対は、結合対より少し広い空間を占める」
「だから水分子の角度は、104.5度。正四面体の109.5度より小さい」
奏が感心した。「電子対の反発で、角度が決まるんですね」
「VSEPR理論」透真が用語を言った。「原子価殻電子対反発理論」
「電子対は互いに反発するから、できるだけ離れた配置を取る」
玲が続けた。「これで分子の形が予測できる」
「CO₂は直線、H₂Oは折れ線、NH₃は三角錐、CH₄は正四面体」
奏が真剣に聞いた。「じゃあ、電子の気持ちって何ですか?」
玲が微笑んだ。「できるだけエネルギーを下げたい。安定したい」
「対になりたい、反発を避けたい、対称性が好き」
透真が補足した。「でも、制約がある。パウリの排他原理、軌道のエネルギー順序」
「その制約の中で、最適解を探してる」
ミリアが静かに入ってきて、ノートに書いた。「Electrons seek harmony」
「電子は調和を求める」玲が訳す。
「結合も、反発も、全てはエネルギー最小化という調和への道」
奏がノートに大きく書いた。「電子の気持ち=エネルギー最小化」
透真が笑った。「擬人化すると、化学が物語になる」
玲が頷いた。「科学的に正確ではないかもしれない。でも、直感を育てる」
夜が更けていく。見えない電子は、今日も原子の周りで、調和を求めて踊り続けている。