「過去は変えられると思う?」
春が図書館の窓から外を見ながら聞いた。
サイモンが本を閉じた。「事実としては、変えられない」
「でも?」
「解釈は変えられる」
澪が初めて口を開いた。「過去は固定されているけど、意味は流動的」
春が興味を示した。「どういうこと?」
サイモンが例を出した。「10年前、誰かに怒られたとする。当時は辛い記憶だった」
「でも今振り返ると、それが自分を成長させたと思えるかもしれない」
「同じ出来事なのに、意味が変わる」
澪が頷いた。「過去の事実は変わらない。でも、その過去をどう物語るかは変えられる」
「物語?」
「私たちは、自分の人生を物語として理解する」サイモンが続けた。「その物語の筋書きは、現在の視点から常に書き直される」
春が驚いた。「じゃあ、過去は現在によって作られる?」
「ある意味でね。ニーチェは『解釈学的循環』という考え方を示した」
「過去と現在が相互に影響し合う」
澪が静かに言った。「だから、後悔も変わる」
「後悔?」
「今は後悔していることも、未来の自分は違う意味を見出すかもしれない」
サイモンが補足した。「あるいは、今は誇りに思っていることが、後悔に変わることもある」
春が考え込んだ。「それって、不安定じゃない?」
「不安定だ。でも、それが人間らしさでもある」
「価値観が変われば、過去の評価も変わる」
澪がページをめくった。「大切なのは、過去に囚われないこと」
「過去は変えられないけど、過去との関係は変えられる」
春が深く頷いた。「過去を許すとか、受け入れるとか」
「そう。ハイデガーは『被投性』という概念を使った」サイモンが説明した。
「被投性?」
「私たちは、自分で選んでいない状況に投げ込まれている。生まれた時代、場所、家族」
「それらは変えられない」
「でも、それらをどう引き受けるかは自由だ」
澪が目を閉じた。「過去を恨むか、感謝するか」
「同じ過去でも、態度次第で意味が変わる」
春がノートに書いた。「じゃあ、過去を『書き換える』んじゃなくて、『読み替える』んだね」
「良い表現だ」サイモンが認めた。
「事実は一つ。解釈は無数」
澪が静かに付け加えた。「でも、都合の良い解釈ばかりするのも危険」
「なぜ?」
「自己欺瞞に陥るから」
サイモンが頷いた。「過去を美化しすぎても、悪魔化しすぎても、現実を見失う」
「バランスが必要」
春が尋ねた。「どうすればバランスを保てる?」
「他者の視点を取り入れることだ」サイモンが答えた。「一人で過去と向き合うと、偏る」
「誰かに話すことで、新しい解釈が生まれる」
澪が小さく笑った。「だから、私たちは語り合う」
「過去を共有することで、意味が豊かになる」
春が腕を組んだ。「過去は変えられないけど、未来は変えられる」
「そして、未来が変わることで、過去の意味も変わる」サイモンが言った。
「循環してる」
「時間は直線じゃない。意味の層では循環している」
澪が立ち上がった。「帰ろう」
三人は図書館を出た。過去という名の書物は、読むたびに新しい意味を見せる。