「愛って何?」
乃愛の問いに、サイモンが驚いた。
「君が聞くのか?感性派の君が」
「だからこそ」乃愛が微笑んだ。「言葉にできない気がして」
美緒が静かに聞いている。いつものように。
サイモンが考えた。「プラトンは、愛を欠如への欲望と定義した」
「欠如?」
「完全でない者が、完全を求める。それが愛だと」
乃愛が首を傾げた。「でも、それって不完全さの証明じゃない?」
「そう。愛は、私たちが不完全だから存在する」
「切ないね」
「でも美しい」サイモンが言った。「不完全性が、つながりを生む」
乃愛が別の角度を示した。「でも、親が子を愛するのは、欠如から?」
「良い反論だ。アガペー、無償の愛は別の種類かもしれない」
「愛には種類がある?」
「ギリシャ語には四つの愛がある」サイモンが説明した。「エロス、フィリア、ストルゲー、アガペー」
「違いは?」
「エロスは情熱的な愛。フィリアは友愛。ストルゲーは家族愛。アガペーは無条件の愛」
美緒がノートに書いて、見せた。「All are love, yet different」
「すべて愛だけど、違う」乃愛が訳した。
サイモンが頷いた。「問題は、一つの言葉で全部を表そうとすること」
「言語の限界?」
「ウィトゲンシュタインは『語りえぬものには沈黙せねば』と言った」
乃愛が静かに笑った。「じゃあ、愛は語りえない?」
「完全には」サイモンが認めた。「でも、近づくことはできる」
「どうやって?」
「メタファー、詩、音楽…直接的じゃない表現」
美緒がまた書いた。「Love is beyond words」
「言葉を超えた愛」乃愛が読んだ。
「でも」乃愛が疑問を持った。「理解するには、言葉が必要じゃない?」
「理解と体験は違う」サイモンが言った。「愛は、体験されるもの」
「説明できないけど、感じられる?」
「そう。色盲の人に赤を説明できないように、愛も直接的には伝えられない」
乃愛が考え込んだ。「じゃあ、愛について語るのは無意味?」
「いや」サイモンが否定した。「不完全でも、試みることに意味がある」
「なぜ?」
「言語化の試みが、理解を深める。たとえ完全には捉えられなくても」
美緒が立ち上がり、ホワイトボードに書いた。
「The attempt to explain is itself an expression of love」
「説明しようとすること自体が、愛の表現」乃愛が訳した。
サイモンが感心した。「深いね、美緒」
美緒は微かに微笑み、席に戻った。
乃愛が窓の外を見た。カップルが歩いている。言葉を交わしている。
「彼らは、愛を説明してるのかな」
「説明というより、共有してる」サイモンが言った。「言葉は、体験を共有する道具」
「完璧じゃないけど?」
「完璧である必要はない。つながりがあれば」
乃愛が深呼吸した。「愛は、つながりそのものかもしれない」
「良い洞察だ」サイモンが頷いた。「愛は、関係性の中にある」
「主体と客体の間?」
「そう。愛は、一人では成立しない」
美緒がそっとノートを開き、一行だけ書いた。
乃愛が覗き込んだ。「Love exists in the space between」
「間にある愛」乃愛が呟いた。
サイモンが微笑んだ。「美緒は、詩人だね」
「沈黙の詩人」乃愛が言った。
三人は静かに考えた。愛という、言葉にできない、でも確かに存在するもの。
「結局、説明できないね」乃愛が笑った。
「だから美しい」サイモンが答えた。
美緒は黙ったまま微笑んだ。彼女の沈黙が、一番雄弁だった。