大学の近くにある古い喫茶店「シャノン」。その名前に惹かれて、由紀と葵は初めて訪れた。
カウンター越しに、静かな中年の店主が迎えた。
「情報理論に興味があるのかい?」店主が淹れたコーヒーを差し出しながら尋ねた。
「どうして分かったんですか?」由紀が驚く。
「この店の名前で入ってくる学生は、大抵そうだ」店主が微笑んだ。「S教授と申します。ただの喫茶店マスターですが」
葵が目を見開いた。「まさか、大学の…」
「退職した身です。今は静かにコーヒーを淹れている」
由紀が勇気を出して尋ねた。「通信路容量って、どういう意味なんですか?」
S教授はカウンターを拭きながら答えた。「パイプを想像してみて。水を流せる量には限界がある。通信路も同じ。送れる情報量には上限がある」
「その上限が通信路容量?」
「そう。シャノンが発見した最も重要な原理の一つだ。どんなに賢く符号化しても、越えられない壁がある」
葵が補足した。「C = B log₂(1 + S/N)。帯域幅Bと信号対雑音比S/Nで決まる」
「正確だね」S教授が頷いた。「帯域幅は、パイプの太さ。信号対雑音比は、水の純度みたいなものだ」
由紀が考え込んだ。「じゃあ、ノイズが多いと、容量は減る?」
「その通り。完全にノイズがなければ、理論上は無限の容量。でも現実の通信路には必ずノイズがある」
店主がコーヒーを注ぎ足した。
「例えば、この店の中で会話する。周りが静かなら、小声でも伝わる。でも騒がしいと、大声を出さないと聞こえない」
「信号の強さを上げるんですね」葵が言った。
「それも一つの方法。でも、より賢いのは符号化だ。ノイズに強い言い回しを選ぶ」
由紀がふと思いついた。「復唱するとか?」
「まさに。冗長性を加える。でも、それには時間がかかる。通信速度と信頼性のトレードオフだ」
S教授は黒板にチョークで図を描いた。
「シャノンの通信路符号化定理。通信路容量C以下の速度なら、誤り確率を任意に小さくできる符号が存在する。でもCを超えると、どんな符号を使っても必ず誤る」
「限界があるんですね」由紀が呟いた。
「でも、その限界を知ることが重要なんだ。無駄な努力をせずに済む」
葵が尋ねた。「現代の通信システムは、その限界に近いんですか?」
「5G、Wi-Fi、光ファイバー。驚くほど近い。ターボ符号やLDPC符号は、シャノン限界の数パーセント以内まで達している」
「数パーセント…」由紀が感心する。
「理論と実装の距離が縮まった。それが20世紀後半の通信革命だ」
店内が少し賑やかになってきた。他の客が入ってくる。
S教授が静かに言った。「情報理論は、可能性と不可能性の境界を教えてくれる。何ができて、何ができないか」
「哲学みたいですね」由紀が言った。
「物理法則と同じだ。光速を超えられないように、通信路容量も超えられない」
葵がコーヒーを一口飲んだ。「でも、その限界内で最善を尽くせる」
「そう。それが工学の美しさだ」S教授が微笑んだ。
由紀はノートにメモを取った。「限界を知ることが、自由への第一歩」
「良い言葉だ」S教授が認めた。「シャノンもきっと、そう考えていただろう」
店の外では、無数の電波が飛び交っている。それぞれが、シャノン限界という見えない壁の内側で、最大限の情報を運んでいる。
「ありがとうございました」由紀と葵が店を出る。
「また来てください。次は、符号理論の話でもしましょう」
扉の鈴が鳴った。喫茶店シャノンには、また静寂が戻った。