「今日、何もやる気が出ない」
海斗がテーブルに突っ伏した。
レオが本を置いた。「どんな感じ?」
「重い。全部が面倒くさい」
空が心配そうに見た。「いつからですか?」
「朝から。いや、昨日の夜から」
レオがノートを開いた。「気分の変動には、脳の化学物質が関係している」
「化学物質?」海斗が顔を上げた。
「神経伝達物質。脳細胞間の信号を運ぶ物質」
空が補足した。「セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンなど」
「聞いたことある」海斗が言った。「セロトニンって、幸せホルモン?」
「正確には、気分の安定に関わる」レオが説明した。「セロトニンが低下すると、抑うつ気分になりやすい」
海斗が聞いた。「じゃあ、俺のセロトニンが少ないってこと?」
「一時的に低下している可能性はある」レオが答えた。「でも、原因は複雑」
空が質問した。「何が低下させるんですか?」
「ストレス、睡眠不足、運動不足、栄養の偏り」レオが列挙した。
海斗が考えた。「全部当てはまる」
「他に、日光不足も影響する」
「日光?」
「セロトニンは、日光を浴びることで生成が促される。冬や曇りの日が続くと、気分が落ちやすい」
空が理解した。「季節性感情障害ですね」
「そう。特に日照時間の短い地域で起きやすい」
海斗がため息をついた。「脳の問題なら、どうしようもない?」
「いや、できることはある」レオが励ました。
空が聞いた。「例えば?」
「まず、運動。有酸素運動は、セロトニンを増やす」
「運動か」海斗が面倒そうにした。
「散歩でいい。20分歩くだけで、気分が変わることがある」
レオが続けた。「次に、リズム運動」
「リズム運動?」
「一定のリズムで繰り返す動作。歩く、噛む、呼吸する」
空が補足した。「リズミカルな活動が、セロトニン神経を活性化する」
「だから、ガムを噛むのも効果的」レオが言った。
海斗が少し興味を持った。「簡単じゃん」
「食事も重要」レオが続けた。「トリプトファンという必須アミノ酸が、セロトニンの原料」
「何に含まれてる?」
「大豆、バナナ、ナッツ、魚」
空が付け加えた。「でも、炭水化物と一緒に摂ると、吸収が良くなる」
「じゃあ、バナナとパンとか?」海斗が聞く。
「理想的な組み合わせ」レオが認めた。
「でも」空が慎重に言った。「食べ物だけでは、劇的には変わらない」
「そう。気分は、多くの要因の総和」レオが同意した。
海斗が聞いた。「他には?」
「社会的つながり。人と話すこと」
「今、話してる」海斗が言った。
「それも良い」レオが微笑んだ。「孤立は、気分を悪化させる」
空が別の視点を出した。「認知的要因もありますよね」
「もちろん」レオが頷いた。「考え方が、気分に影響する」
「どういうこと?」海斗が聞く。
「ネガティブな思考パターンが、気分を下げる。『何もかもうまくいかない』『自分はダメだ』と考えると、セロトニンも下がる」
空が説明した。「脳と心は、相互に影響し合う」
「思考が化学物質を変える?」海斗が驚いた。
「そう。逆もまた真」レオが答えた。「化学物質が思考を変える」
海斗が考え込んだ。「じゃあ、どっちが先?」
「ニワトリと卵の問題」空が言った。「両方同時に起きる」
レオが付け加えた。「だから、両方からアプローチする。生活習慣と、考え方」
海斗が聞いた。「今すぐできることは?」
「外に出よう」レオが提案した。「一緒に散歩しよう」
「今から?」
「今から。日光を浴びて、体を動かす」
空が立ち上がった。「私も行きます」
海斗がゆっくり立った。「本当に効果ある?」
「即効性はないかもしれない」レオが正直に言った。「でも、何もしないよりいい」
「気分が落ちる日は、脳が『休め』と言っている」空が言った。
「でも、完全に停止する必要はない」レオが続けた。「少しだけ動く。それが回復への第一歩」
三人は外に出た。曇り空だったが、少し光が差していた。
「ちょっとだけ、楽になった気がする」海斗が言った。
「プラセボ効果かもしれないけど」レオが笑った。「それも脳の力」
空が加えた。「信じることも、化学物質を変える」
海斗が深呼吸した。「脳って、不思議だな」
「不思議で、複雑で、でも変えられる」レオが言った。
三人は静かに歩いた。重かった足が、少しずつ軽くなっていく。
気分は、波のように上下する。でも、波の乗り方を知れば、溺れずに済む。脳の動きを理解することが、心の自由への第一歩。