「日和さんは、いつも本音で話してますか?」
ミラの突然の質問に、日和が手を止めた。
空も顔を上げた。三人は放課後の教室にいた。
日和が少し考えてから答えた。「難しい質問ですね。本音と建前、両方使っていると思います」
「なぜ?」ミラが聞く。
「社会生活には、ある程度の建前が必要だから」
空が興味を示した。「心理学的には、どう説明されるんですか?」
日和がノートに図を描いた。「ジョハリの窓という概念があります」
「開放の窓、盲点の窓、秘密の窓、未知の窓」
ミラが指差した。「秘密の窓?」
「自分は知っているけれど、他者には見せていない部分。本音の多くはここにある」
空が理解した。「建前は、開放の窓の一部」
「そう。社会的に受け入れられる自己を提示する」
ミラが静かに言った。「でも、それって疲れませんか?」
日和が頷いた。「とても疲れます。自己不一致と呼ばれる状態になる」
「自己不一致?」
「本当の自分と、見せている自分が異なること。心理的なストレスの原因になる」
空がノートに書き留めた。「カール・ロジャーズの理論ですね」
「そう。ロジャーズは、自己一致の重要性を説いた」
ミラが聞いた。「自己一致って?」
「本音と建前が一致している状態。感じていることと、表現することが同じ」
「それは理想的」空が言った。「でも、現実的には難しい」
日和が認めた。「特に日本社会では、調和を重視する。本音を抑え、建前を優先する文化がある」
ミラが自分の経験を話した。「私、いつも『大丈夫』って言う。でも、本当は大丈夫じゃない」
「なぜ言えないの?」空が優しく聞く。
「迷惑をかけたくない。弱さを見せたくない」
日和が説明した。「それは防衛機制の一種。社会的望ましさというバイアスもある」
「社会的望ましさ?」
「良い人間だと思われたい欲求。そのために、本音を隠す」
空が思い出した。「私も、先生に意見を求められた時、本当に思っていることではなく、期待される答えを言ってしまう」
「多くの人がそうです」日和が共感した。「でも、それが続くと自分を見失う」
ミラが不安そうに言った。「じゃあ、本音を全部言うべき?」
「いいえ」日和が首を振った。「それも極端です。バランスが大切」
「バランス?」
「状況によって使い分ける。親しい人には本音を、公的な場では建前を」
空が補足した。「自己開示の段階的なモデルですね」
「そう。信頼関係が深まるにつれて、本音を開示していく」
日和が続けた。「大切なのは、自分の本音を自分が知っていること」
ミラが考えた。「建前を使っていても、本音が何か分かっていればいい?」
「そう。自己欺瞞に陥らないこと。『これは建前だ』と意識していれば、自己を見失わない」
空がノートに書いた。「意識的な建前と、無意識の建前は違う」
「鋭い観察」日和が認めた。「無意識に建前を使い続けると、本音が分からなくなる」
ミラが小さく言った。「私、もう本音が分からないかもしれない」
日和が優しく言った。「それなら、ゆっくり探していけばいい」
「どうやって?」
「自分に正直に問いかける。『本当はどう感じている?』『何を望んでいる?』」
空が提案した。「日記をつけるのも良い方法です。誰にも見せない、本音を書く場所」
「安全な空間で、本音を確認する」日和が頷いた。
ミラが聞いた。「本音を見つけたら、それを表現しなきゃいけない?」
「必ずしも」日和が答えた。「表現するかどうかは、選択できる」
「選択?」
「本音を知った上で、建前を使うのは問題ない。問題は、本音を知らないまま建前を使うこと」
空が理解した。「自己決定と、自己欺瞞の違い」
「その通り」
ミラがゆっくり言った。「本音と建前の間に、自分がいる」
日和が微笑んだ。「美しい表現ですね」
「建前は道具」空が続けた。「使う人が自覚していれば、問題ない」
「でも」日和が付け加えた。「時には本音を表現する勇気も必要です」
ミラが不安そうに言った。「本音を言って、嫌われたら?」
「それもあり得ます」日和が正直に答えた。「でも、本音を受け入れてくれる人との関係は、深く強い」
空が言った。「表面的な関係か、深い関係か。どちらを選ぶかは、自分次第」
ミラが考え込んだ。「全員に本音を言う必要はない?」
「ありません」日和が断言した。「大切な人にだけ、本音を開示すればいい」
「それで十分?」
「十分です。むしろ、選択的な自己開示は健康的です」
空がノートを閉じた。「本音と建前、どちらも自分の一部」
日和が頷いた。「否定するのではなく、使い分ける知恵を持つこと」
ミラが窓の外を見た。「本音を探す旅、始めてみます」
「良い決断」日和が励ました。「焦らず、ゆっくりと」
三人は静かに教室にいた。本音と建前の狭間で揺れながら、それでも自分であろうとする。それが、生きることなのかもしれない。
空が言った。「完璧な自己一致は無理でも、少しずつ近づける」
「その努力が大切」日和が認めた。
ミラが小さく微笑んだ。「今日は、少し本音を話せた気がする」
「それが第一歩」日和が言った。「これからも、安心して本音を話せる場所がある」
空が頷いた。「ここは、そういう場所です」
三人の間に、静かな信頼が流れた。本音と建前の狭間で、自分を見失わないために。支え合いながら、歩いていく。