「ドッキングスコアが良いのに、実験では全く効かなかった…」
瀬名が落胆した表情でリナに報告した。
「よくあることよ」リナがラップトップを見ながら答えた。「スコアは万能じゃない」
「でも、マイナス10 kcal/mol…すごく良い数字だと思ったんですが」
朗が隣に座った。「スコアリング関数が何を計算しているか、理解している?」
「結合の強さ…ですよね?」
「それは最終目標。でも実際には、近似に次ぐ近似だ」リナが説明を始めた。
画面には、スコアリング関数の式が表示された。
「ファンデルワールス力、静電相互作用、水素結合、疎水効果…それぞれに係数が掛かっている」
「この係数は?」瀬名が尋ねた。
「既知の複合体データから、フィッティングで決めたものだ」朗が答える。「つまり、経験的パラメータ」
「完璧じゃない…?」
「遠く及ばない」リナが率直に言った。「エントロピー損失、溶媒和自由エネルギー、誘導適合…計算できていない要素がたくさんある」
朗が補足した。「特に、結合時の配座エントロピー損失は難しい。柔軟な分子ほど、自由度を失うコストが大きい」
「じゃあ、柔軟な分子は不利?」
「スコアには反映されにくい。だから、剛直な分子の方が過大評価されることがある」
リナが別の画面を開いた。「これは同じ複合体を、別のスコアリング関数で計算した結果」
「数値が全然違う…」
「関数によって、何を重視するかが違う。ある関数は静電相互作用を重視し、別の関数は疎水効果を重視する」
朗が言った。「だから、複数の関数で評価するのが賢明だ。全てで良いスコアが出るなら、信頼度が上がる」
「でも」瀬名が考え込んだ。「実験値との相関はどのくらいあるんですか?」
リナがグラフを表示した。「良いケースで相関係数0.7くらい。悪いと0.3以下」
「あまり高くないですね…」
「順位付けには使える」朗が説明する。「絶対値は信用できなくても、相対的な優劣は分かることが多い」
「つまり、スコア-10とスコア-7なら、-10の方が良い可能性が高い、くらい?」
「その程度の解像度だ」リナが認めた。「だから、上位候補を複数選んで実験する必要がある」
瀬名がメモを取る。「スコアだけで判断しちゃダメなんですね」
「視覚的な確認も重要だ」朗が画面で分子を回転させた。「この結合様式、本当に妥当か?」
「水素結合の角度が変ですね…」
「スコアリング関数は、角度依存性を簡略化していることが多い。だから、不自然な構造でも良いスコアが出る」
リナが別の例を示した。「これは疎水性ポケットに、親水基が突っ込んでいる」
「明らかにおかしい…」
「でもスコアは悪くない。なぜなら、水素結合の項が大きく寄与しているから」
朗が総括した。「スコアは単一の数値だ。でも結合の質は多次元的。一つの数字で表しきれない」
「じゃあ、どうすれば良いんですか?」瀬名が尋ねた。
「スコアは参考程度」リナが答えた。「構造を目で見て、化学的に妥当かを判断する」
「相互作用のパターンを見る」朗が続ける。「重要な水素結合があるか、疎水性マッチングは良いか、立体障害はないか」
「そして、複数のポーズを比較する」リナが付け加えた。「ドッキングは一つの解だけじゃない。上位数個を見て、共通パターンを探す」
瀬名が理解してきた。「スコアは道具であって、答えじゃない…」
「その通り」朗が微笑んだ。「道具の限界を知って使うのが、プロのやり方だ」
リナが画面を切り替えた。「より高精度な計算もある。分子動力学シミュレーション、自由エネルギー計算…」
「それなら正確ですか?」
「より正確だが、計算コストが桁違いに高い。一つの複合体に数日かかることもある」
「だから、まずドッキングでスクリーニングして、有望な候補だけ精密計算する」朗が説明した。
「段階的に絞り込んでいくんですね」
「そう。各段階で、適切な精度の手法を選ぶ。それが効率的な創薬だ」
窓の外で、雲が流れていく。完璧な予測は難しい。でも、不完全な道具を賢く使えば、真実に近づける。そのバランス感覚が、計算化学者には求められていた。
「次は、自由エネルギー摂動法を勉強してみよう」リナが提案した。
「難しそう…」
「確かに。でも、原理を理解すれば、スコアの限界がもっとよく見えてくるわ」
瀬名は期待と不安の入り混じった表情で頷いた。計算の世界は、まだまだ奥が深そうだった。