「勇気って何だろう」
晴がぼんやりと言った。三人で屋上にいる。
「興味深い問いだ」サイモンが答えた。「文化によって定義が違う」
「どう違うの?」
「西洋では、勇気は徳の一つとされる。アリストテレスの『四元徳』にも含まれる」
蓮が補足した。「臆病と無謀の中間。適切な恐怖と、適切な行動のバランス」
「恐怖を感じないのは勇気じゃない?」晴が驚いた。
「無謀だ」サイモンが言った。「本当の勇気は、恐怖があるのに行動することだ」
「恐怖の中で?」
「そう。プラトンも言っている。『勇気とは、恐るべきものと恐るべきでないものを区別する知恵である』」
蓮が続けた。「つまり、何を恐れるべきか判断し、それでも行動する」
晴が考えた。「じゃあ、何も怖くない人は勇敢じゃない?」
「ソクラテスならそう答えるだろう」サイモンが微笑んだ。
「でも」晴が反論した。「怖いのに行動するって、矛盾してない?」
「矛盾ではない」蓮が説明した。「感情と意志は別だ」
「感情?意志?」
「恐怖は感情。行動は意志。意志が感情を超えるとき、勇気が生まれる」
サイモンが例を出した。「溺れている人を見る。怖い。でも飛び込む。それが勇気だ」
「飛び込まないのは?」
「必ずしも臆病ではない。泳げなければ、飛び込むのは無謀だ」
晴が理解し始めた。「状況を判断して、できる範囲で行動する」
「そう。カントは言った。『勇気は理性に導かれるべきだ』」
蓮が補足する。「感情的な衝動ではなく、道徳的な判断に基づく行動」
「じゃあ、怒りで誰かを殴るのは勇気じゃない?」
「違う」サイモンが即答した。「それは感情の暴発だ」
「勇気は、いつ生まれるの?」晴が核心を突いた。
蓮が真剣に考えた。「選択の瞬間だと思う」
「選択?」
「二つの道がある。安全な道と、危険だが正しい道。後者を選ぶ瞬間」
サイモンが頷いた。「キルケゴールは言った。『不安の中で選択するとき、人は真に自由だ』」
「不安と勇気は繋がってる?」
「表裏一体だ」サイモンが空を見た。「不安がなければ、選択に意味がない」
晴がノートに書いた。「勇気=恐怖+意志+選択」
「良い定式だ」蓮が認めた。「でも、もう一つ要素がある」
「何?」
「目的。なぜその行動を取るのか」
サイモンが例を出す。「自己顕示のために危険なことをするのは勇気か?」
「...違う気がする」晴が答えた。
「アリストテレスは、勇気は『善のため』でなければならないと言った」
「善?」
「自分や他者の幸福のため。それが真の勇気だ」
晴が考え込んだ。「じゃあ、誰かを守るために立ち向かうのは?」
「それは勇気だ」蓮が断言した。「恐怖があり、選択があり、善い目的がある」
「でも」晴が小声で言った。「私、怖くて何もできないことが多い」
サイモンが優しく言った。「それは普通のことだ。誰もが常に勇敢ではいられない」
「勇気は、瞬間的なもの?」
「そうとも言える」蓮が答えた。「日常的に勇敢でいる必要はない」
「必要なときに?」
「そう。ハンナ・アーレントは『勇気は政治的行為だ』と言った」
晴が驚いた。「政治?」
「公共の場で、自分の信念を表明すること。それが勇気だと」
「小さな勇気もある?」
サイモンが微笑んだ。「もちろん。間違いを認める勇気、助けを求める勇気、自分らしくいる勇気」
「日常の勇気」
「それらも立派な勇気だ」蓮が頷いた。「社会的な圧力に逆らうという意味で」
晴が立ち上がった。「じゃあ、今から勇気を出してみる」
「何を?」
「ずっと言えなかったこと。先生に質問する。授業で分からなかったところ」
二人が笑った。
「それは勇気だ」サイモンが言った。「無知を認める勇気、学ぶ勇気」
「怖いけど、やってみる」
蓮が真剣に言った。「その瞬間、君は勇敢だ」
晴が階段を降りた。心臓が高鳴る。でも、足は前に進む。
勇気は、恐怖の不在ではない。恐怖の中での一歩だ。
その一歩が、世界を変える。
少しずつ。