Lipinskiの壁にぶつかった午後

リピンスキーのルール・オブ・ファイブを通じて、薬物様性の基本原則を学ぶ。

「これ、完璧だと思うんですけど…」

瀬名が構造式を見せた。活性も高い。選択性も良い。でも、ミハイルは静かに首を振った。

「薬にはならない」

「え? なんでですか?」

「分子量を見て。650。大きすぎる」

明が近づいてきた。「Lipinskiの壁にぶつかったね」

「リピンスキー?」

ミハイルが説明を始めた。「Christopher Lipinskiが提唱した、経口薬の経験則。Rule of Fiveという」

「ファイブ?」

「五の倍数で覚えやすい。分子量500以下、LogP 5以下、水素結合ドナー5個以下、水素結合アクセプター10個以下」

瀬名がメモを取った。「うちの分子、分子量が650…」

「そう。口から飲んで吸収されるには、適度な大きさが必要なんだ」

明が補足した。「腸管から吸収されるには、細胞膜を透過しないといけない。大きすぎると通れない」

「でも、活性は高いんです!」

「活性が高くても、体内に届かなければ意味がない」ミハイルが穏やかに言った。

瀬名が構造式を見つめた。「どうすればいいんですか?」

「削る」明が即答した。「不要な部分を見つけて、分子量を減らす」

「でも、どこを?」

明が構造式を分析した。「このベンゼン環。活性に必須?」

「たぶん…必須じゃないかも」

「じゃあ、外してみよう。分子量が77減る」

ミハイルが計算した。「それでも573。まだ超えてる」

「この長いアルキル鎖は?」瀬名が指さした。

「疎水性を上げるために入れた」明が答えた。

「LogPも問題だ」ミハイルが指摘した。「計算すると5.8。脂溶性が高すぎる」

「脂溶性が高いとダメなんですか?」

「脂に溶けすぎると、脂肪組織に蓄積する。排泄されにくくなる」

明が提案した。「アルキル鎖を短くしよう。C8をC4に」

「活性は落ちませんか?」

「落ちるかもしれない。でも、薬になれないよりマシだ」

瀬名が修正案を描いた。分子量490、LogP 4.2。

「良くなった」ミハイルが微笑んだ。「でも、まだ見るべき指標がある」

「水素結合は?」瀬名が確認した。

「ドナー3個、アクセプター8個。範囲内だ」

「じゃあ、これで完璧?」

「Rule of Fiveは、あくまで経験則」ミハイルが注意した。「クリアしても薬になるとは限らない。でも、外れると薬になる確率は低い」

明が別の視点を提示した。「抗体医薬とか、巨大分子もある」

「そう。Rule of Fiveは低分子経口薬の話。注射薬や生物製剤は別のルールがある」

瀬名が納得した。「薬の種類によって、最適な性質が違うんですね」

「その通り。だから、最初にターゲット製品プロファイルを決める。経口薬なのか、注射薬なのか」

「TPP…」

「Target Product Profile。開発する薬の設計図だ」ミハイルが言った。

明が構造式を見た。「この修正で活性が半分になったとしても、吸収が10倍良ければ、体内での効果は5倍になる」

「ADME全体で考える必要がある」ミハイルが強調した。

「ADME?」

「Absorption、Distribution、Metabolism、Excretion。吸収、分布、代謝、排泄」

瀬名がメモ帳を埋めていく。「活性だけじゃダメなんだ…」

「活性は、スタート地点に過ぎない」ミハイルが優しく言った。「そこから薬にするのが、ドラッグデザインの本質だ」

明が最後に言った。「Lipinskiの壁は、最初の壁。でも、越えた先にはもっと多くの壁がある」

「何度も壁にぶつかるんですね」

「そう。でも、一つずつ越えていく。それが最適化だ」

瀬名は構造式を見つめた。完璧に見えた分子が、実は薬への第一歩に過ぎなかった。でも、それが分かっただけでも、大きな進歩だと思えた。

「次は、代謝安定性を見よう」ミハイルが提案した。

新しい壁が、また待っている。でも、今度は少し、準備ができている気がした。