「今日は静かだね」
由紀が部室の窓を開けながら言った。
「静か、という状態にも情報がある」葵がノートを広げた。
「情報?何もないのに?」陸が不思議そうに聞く。
「逆だよ。『何もない』という確実性が、情報量ゼロを作る」
由紀が興味を示した。「どういうこと?」
「情報量は、不確実性を測る。もし結果が完全に予測可能なら、それを知らされても驚きはない」
葵はホワイトボードに例を書いた。
「『明日、太陽は東から昇る』というメッセージ。これは何ビット?」
「ゼロ?」由紀が答える。
「正解。確率がほぼ1だから、自己情報量は-log₂(1) = 0」
陸が考え込んだ。「じゃあ、『陸は明日も遅刻する』も情報量ゼロ?」
由紀と葵が笑った。
「確率が高いなら、そうかもね」葵が認めた。
「でも待って」陸が反論した。「俺が『明日は絶対に遅刻しない』って宣言したら、それは情報になる?」
「面白い質問だ」葵が目を輝かせた。「それは、事前確率と事後確率の問題だね」
「事前確率?」由紀が聞く。
「宣言を聞く前の確率。陸の遅刻確率が90パーセントだったとする」
「高すぎ!」陸が抗議する。
「宣言を聞いた後、遅刻確率が例えば50パーセントに下がったら、その宣言は情報を持つ」
由紀がノートに計算を書いた。「情報量は、確率の変化に対応するんですね」
「そう。ベイズ更新で確率が変わるとき、情報が伝わった証拠だ」
陸がふと気づいた。「じゃあ、完全に予測可能な人って、情報量ゼロ?」
「ある意味ではね。行動に驚きがなければ、新しい情報は得られない」
由紀が考え込んだ。「でも、予測可能って安心感もありますよね」
「そこが面白い」葵が言った。「情報理論と心理は、必ずしも一致しない」
葵は別の例を出した。
「長年連れ添った夫婦は、お互いの行動を完璧に予測できるかもしれない。相互情報量は低いけど、それが関係の質を下げるわけじゃない」
「むしろ安定してる」由紀が言った。
「そう。情報量が高ければ良い、というわけじゃない」
陸が窓の外を見た。「今日みたいな平穏な日も、情報量ゼロだけど悪くない」
「平穏さの価値は、情報量では測れない」葵が静かに言った。
由紀がノートを閉じた。「情報理論って、全てを説明するわけじゃないんですね」
「もちろん。道具は道具。大事なのは、いつ使うか、いつ使わないかを知ること」
陸が立ち上がった。「じゃあ、明日は『予測不可能な陸』になってみようかな」
「高エントロピーな行動?」由紀が笑う。
「それも面白いけど」葵が言った。「適度な予測可能性と、適度なサプライズ。そのバランスが人間らしさかもね」
窓の外で、いつもと同じ風景。情報量ゼロの夕暮れ。でも、三人はその穏やかさを楽しんでいた。
「情報量ゼロでも、価値はある」由紀が呟いた。
「それが、今日の学びだね」葵が微笑んだ。