「これ、何の分布だと思う?」
葵が由紀にグラフを見せた。ベル型の曲線。
「正規分布ですか?」
「正解。でも、なぜ正規分布がこんなに重要か考えたことある?」
由紀は首を横に振った。
「中心極限定理があるからだ。独立な確率変数の和は、正規分布に近づく」
陸が部室に入ってきた。「また確率の話?」
「それ以外に何を話すんだ?」葵が笑った。
「普通の雑談とか…」
「確率も雑談だよ。世界は確率でできてる」
由紀が興味を示した。「世界が確率?」
「量子力学的には、文字通りそうだ。でも、情報理論でも、確率分布はすべての基礎になる」
葵は複数のグラフを描いた。正規分布、指数分布、ベルヌーイ分布。
「それぞれ異なる確率分布。でも、共通の性質がある」
「期待値?」由紀が言った。
「そう。E[X] = Σ x p(x)。確率分布の『中心』を表す」
陸が考えた。「平均みたいなもの?」
「正確には、確率的な平均。多数回の試行で、平均的に得られる値」
「期待値が高いと、良いこと?」由紀が聞いた。
「文脈による。宝くじの期待値は負だけど、人は買う」
「なぜ?」
「期待値だけじゃなく、分散も重要だから。分散は、ばらつきを表す」
葵は式を書いた。「Var(X) = E[(X - E[X])²]」
「期待値からのずれの二乗平均だ」
陸が手を挙げた。「宝くじは、期待値は低いけど、分散が高い?」
「正確。小さな確率で、大きな利益。これが人を惹きつける」
由紀が納得した。「リスクとリターンの話ですね」
「情報理論と経済学は、ここで交差する。両方とも、確率分布を扱う」
陸が聞いた。「じゃあ、最適な確率分布ってあるの?」
「目的による。エントロピーを最大化したいなら、一様分布だ」
「一様分布?」
「すべての事象が等確率。これが最も不確実性が高い」
葵は新しい図を描いた。平らな分布。
「でも、制約がある場合は違う。例えば、平均が固定されてるとき、エントロピーを最大化する分布は正規分布だ」
由紀が驚いた。「正規分布って、エントロピー最大なんですか?」
「平均と分散が固定されてる場合にはね。これが、正規分布がよく現れる理由の一つ」
「自然が、エントロピーを最大化してる?」
「ある意味で。情報が少ない状態では、最も偏りのない分布が現れる」
陸が別の質問をした。「モーメント生成関数って何?」
葵が驚いた。「どこでそれを聞いた?」
「教科書にあった。よく分からないけど」
「確率分布の性質を、一つの関数にまとめたもの。期待値、分散、歪度、尖度、すべてここから導ける」
「便利そう」由紀が言った。
「とても便利。特に、独立な確率変数の和を考えるとき」
葵は計算を示した。「M_X+Y(t) = M_X(t) × M_Y(t)。畳み込みが、積に変わる」
「フーリエ変換みたい」由紀が気づいた。
「まさに。モーメント生成関数は、確率分布のフーリエ変換とも言える」
陸が混乱した顔をした。「全部つながってるの?」
「そう。数学は一つの大きな構造だ」葵が静かに言った。「確率論、情報理論、フーリエ解析、すべて根底でつながってる」
由紀が窓の外を見た。「人生も確率分布かもしれませんね」
「哲学的だね」葵が微笑んだ。「でも、その通りかもしれない。私たちは、確率分布の実現値を生きてる」
「俺の人生の期待値は?」陸が聞いた。
「それは、君が決めることだ」葵が答えた。「期待値は、選択で変わる」
「じゃあ、分散は?」
「それも同じ。リスクを取るか、安定を選ぶか」
由紀が笑った。「確率の話しかしない放課後、意外と深いですね」
「確率は深い」葵が言った。「不確実性を受け入れ、それでも最善を尽くす。それが確率論の教えだ」
三人は、自分たちの人生という確率分布について、しばらく考え込んだ。