「今日は穏やかですね」
由紀が窓辺で言った。雲一つない青空。
「エントロピーが低い日だ」葵がノートを閉じた。
「エントロピーと天気が関係あるんですか?」
「直接的じゃないけど、メタファーとして面白い」葵が微笑んだ。「エントロピーは不確実性の尺度。今日みたいな日は、何が起こるか予測しやすい」
「予測可能だと、エントロピーが低い?」
「正確には、確率分布が偏っているとエントロピーは低い。一つの事象の確率が1に近いとき、H(X) = -Σ p(x) log₂ p(x) は小さくなる」
由紀が計算した。「例えば、『今日は穏やかな一日になる』の確率が0.9なら…」
「エントロピーは低い。でも、『晴れ、曇り、雨が同じ確率』なら、エントロピーは最大」
「だから天気予報が難しいんですね」
葵が頷いた。「不確実性が高いほど、予測は困難。エントロピーが高い状態だ」
部室は静かだった。陸もミラも今日は来ていない。
「でも」由紀が考えた。「エントロピーが低いって、つまらなくないですか?」
「面白い視点だね。確かに、完全に予測可能な日々は退屈かもしれない」
「サプライズがない」
「情報理論では、サプライズが情報量だからね。エントロピーが低いと、新しい情報は少ない」
由紀がノートに書いた。「低エントロピー = 安定 = 情報少ない = 退屈?」
「でも」葵が静かに言った。「安定には価値がある」
「どういう意味ですか?」
「カオス理論では、エントロピーが高い状態は予測不可能で制御不能。低エントロピーは秩序だった状態」
「秩序?」
「パターンがある状態。規則性。それが美しいと感じることもある」
葵は例を出した。「クラシック音楽は、ある程度予測可能なパターンを持つ。完全なランダムノイズより、低エントロピーだけど美しい」
「なるほど」由紀が理解した。「適度な予測可能性が、心地良い」
「そう。完全なランダムも、完全な規則性も、人は好まない。適度なエントロピーが最適」
窓の外で、鳥が規則的に鳴いた。
「あの鳥の鳴き声も、低エントロピーですね」由紀が言った。
「パターンがあるからね。でも、それが心地良い」
二人は静かにお茶を飲んだ。
「今日みたいな日も、悪くないですね」由紀が微笑んだ。
「エントロピーが低い日は、落ち着く。予測可能な安心感」
「でも」由紀が付け加えた。「たまには高エントロピーな日も必要ですよね」
「サプライズや新しい発見のために」
「バランスが大事」
葵が頷いた。「人生も同じ。低エントロピーの安定期と、高エントロピーの変化期。どちらも必要」
「今は安定期?」
「そうかもね。でも、またエントロピーが上がる日も来る」
由紀が笑った。「陸が来たら、エントロピー急上昇ですね」
「間違いない」葵も笑った。「彼は高エントロピー源だ」
「でも、それも含めて楽しい」
「そう。適度な混沌が、日常を豊かにする」
時計の針が規則的に進む。低エントロピーな午後。でも、それは決して退屈ではなかった。
「穏やかな日も、情報理論で理解できるんですね」由紀が言った。
「すべては確率分布と、そのエントロピー。でも、それを超えた価値もある」
「価値?」
「安心、美しさ、心地良さ。数式では測れないけど、確かに存在する」
由紀はノートを閉じた。「エントロピー低めの穏やかな日。それも青春の一部ですね」
「完璧な理解だ」葵が微笑んだ。
外では相変わらず、雲一つない青空が広がっていた。